自覚のための知覚

 明後日大阪へ帰る。短いようで長い帰省だった。ってどっちやねん、といつも思う。成人式はメンドウクサクなったのでもう出ない積もりだ。鹿児島に一人でいると、自然と考える時間が増えた。どうしてか分からないけれども午前三時以降まで眠れない日々が続く。そこでいろいろと考える。勿論考えることといえば、「僕と彼」についてだ。
 僕の全てをぶつけた。全てを受け止めて欲しかった。けれどそれは彼には荷が重すぎたようだ。何故なら彼には僕だけでなく、他にも背負わなければいけないものがたくさんあったからだ。そこで僕は利己的に「じゃあ他の荷物を捨てればいいじゃないか」と提案した。恋愛とは利己的で自己愛的なものだと僕は思っているからだ。けど彼は頑なに拒否した。彼の持つ責任という名の荷物こそが彼を意味するという。その荷物はもはや彼の身体にくっついてしまい切っても切れないものなのだと言う。僕は落胆した。だったらせめて、彼が持てるだけの重さ分は、全て「僕」で埋め尽くしてしまいたかった。しかし彼には欲望とか遊び心ってものがあって、たまには別のものも欲しいみたいだ。そのためには少し手を空かせておきたいようだ。僕は最初怒り、悲しみ、まだ全てをぶつけていた。そして再度、それは彼には荷が重すぎるようだということを体感した。どうしようも無いから、「彼が苦しくならない程度に持てるだけ」、上手に持ってもらおうと努めることにした。しかしその時「彼に持たれない、残された僕」は少しずつ摺り切れていってしまっているような気がする。勿論、残すことを選択したのは僕自身なのだけれど。たった独りで、自分を自分のままで保っていくことはとても労を要する。ただ彼は「“僕の身体に刷り込まれたもの”を少しずつでも無くしていくよう努力するから、すぐに全部捨ててしまうことなんて無理だけど、待っていて欲しい」と言う。身体が軽くなった分だけ、僕を背負ってくれるらしい。それは紛れもない希望だ。けど、待っている間に自分は少しずつ少しずつ摩耗し、溶け、醒めて行っている。ほんの少しずつだけれど。これは自身で自らを摩耗させ、溶かし、醒ましているのだ。自分を守るために。彼のために空けている、手。そこに何も無ければ虚しさだけが漂う。その虚しさに耐えるために。──こうして無感動になりつつある自分がいる。彼が何をし何を語り何を告げようと、何とも思わなくなりそうな自分が怖い。きっと彼はいつも言うように「そうなってしまったらしかたないよね」と思うのだろう。なんでそう思えるのか自分には理解できない。「どうしてそうならないように努力しないのか」と腹立たしくなりながら問えば、「じゃあ僕にどうしろっていうの」と彼も怒る。彼は最大限の努力をしているらしいのだ。そして僕はそれに満足できていないらしい。ではどうしようもないことなのだろうか。「しかたのないこと」なのだろうか。
 早く大阪へ帰り、一刻も早く彼に会いたい。彼と会ってから一年が過ぎた。新たな気持ちで始めたい。間もなく彼は一人暮らしをするらしい。それも僕のために荷物を下ろそうとした結果なのだと思う。ただケチをつければ手術日の前日だけは家で寝るらしい。(手術だけは万全の態勢で臨みたいようだ。)彼の一人暮らしの地も親の持つアパートだし、一番安心できる場所は一人暮らしの地でもなく僕の部屋でもなく彼の家なのだろう。全然親離れできてないじゃないかコンチクショウ。と思いつつも、少しでも環境に変化があれば彼も何かが変わるかもしれない。何だか彼を無理矢理一人暮らしさせたような罪悪感もある。けれどこの際気にしない。僕はそれに縋る。本当は縋るだけの人生なんてまっぴらだ。僕は自分の人生は自分で切り開きたい。待つことと我慢することは違う。今僕は「待っている」というよりも「我慢している」という気持ちがある。正直言っていつまで我慢できるか分からない。愛情と我慢の根比べだ。僕がどれくらい我が侭かということは、誰よりも僕が知っている。今はそれでいいと思っている。