成人の日

 昨日大阪へ帰り、夜から今日の夜まで彼と過ごした。最早成人式に出る気は無く、スーツも鹿児島へ置いたままであった。ただ、彼が傍に居るという事実だけが自分にとってのリアルであって、最も重要なことだった。クリスマスの時に飲みそびれたシャンパンをようやく空けた。甘く飲みやすくおいしかった。ずっとそんな瞬間が続けばよいと願った。
 彼の引越しが無くなったと聞いた、そのときの失意を言い表すことは難しい。彼は明らかに言い淀んでいた。「引越しの準備は進んでる?」と聞けば「いや」と答える。続けて「四階に一部屋空いてそこが僕の部屋になった」と言う。その時点で既に嫌な予感は脳の隅から隅まで駆け巡った気がした。「つまり引越しはしないってこと?」と聞けば「うん」と相槌を打つ。目の前が真っ暗になるだとか言うんじゃなくて、“何にも見えなく”なった。理由を聞けばまたも『家庭の事情』であった。あきらめていたはずなのに、どこかであきらめきれていなかったのだろうか、悔しくなって問い詰めてしまった。「それに現実的に考えればお金もかかるし」と言う。何のためにそんなに金を稼いでいるんだよと罵声を浴びせたくなる衝動を抑えた。そんな金なんとかして僕が出してやる。そう啖呵をきれば「でも君は学生で社会的な責任が」とか言い出す。こんなに目出度い『成人の日』は無いだろう。
 ではなぜ彼は以前「一人暮らしをする」だなんて口にしていたのだろう。聞いてみれば彼の部屋が無くプライバシーを守れる場所が欲しかったのだと言う。それが『家庭の事情』で一部屋空き、『家庭の事情』で家を出にくくなった。そしてプライバシーが確立された。だから出る必要が無くなった、と。すっかり僕は、僕の気持ちを理解して彼が一人暮らしを始めるのだと思っていたから、いや、僕は確かに以前「僕が誰かのために一人暮らしをするのなんて初めてやで」と大儀そうに言う彼の言葉を聞いたはずだったから。頑なに耐えていた壊れかけの心が、修復を目前に更に打ちのめされ、希望を失い、音も立てずに崩れ落ちてしまったような気がした。
 彼とずっと一緒に居たいという僕の想いがただの我が侭な願望であるのだと、彼の顔から悟った瞬間 僕は彼のしたいようにすればよいと、またも己を放棄することにした。彼は僕の気持ちを考慮した上で決断したと言う。ならばもう僕にはどうしようもないのだ。「本当に僕の気持ちを分かっているのか」と糾弾するのは疲れた。なぜならば僕の本当の気持ちというものは、簡潔に言ってしまえば彼への(強い、強い)好意から生じる独占欲であるに過ぎないからだ。彼は滔々と語った。僕にはどう見ても散財にしか見えない彼のお金の使い方は、彼の信念、計画に基づいているのだということ、将来のために貯蓄もしなければならないこと、今年は車も買う予定であること、自分が未婚で子供を持たずゲイであるため家族の大黒柱としての責任を持つこと、もし二人で家を借りるとしたら学生である僕は家を貸して貰えないため彼が責任を持たなければならないということ、その他の諸、彼の持たねばならぬ社会的な責任について、仕事の多忙による余裕の無さから、職場から遠ざかれば遠ざかるだけ更に負担も増えること、余裕が無くなれば僕に優しくできなくなってしまうということ、今でも精一杯、これる限り僕の家へ来ているのだということ、僕のことを好きでなければわざわざ僕の家へ泊まりにき、朝の六時に出て行ったりしないのだということ。
 話を聞けば聞く程、僕は己の無力加減に打ち拉がれ、彼の愛情を感じ泣きたくなった。すべては彼の僕に対する愛情に左右されるのだろうか。答えは「否」であるはずなのに、「応」を打ち破る術を見出すことが出来なかった。涙は唯一の武器になるのだとその時感じた。惨めだった。己の無力への抵抗というささやかな意思表示は、彼に「僕は涙に弱いんだよね」と彼に言わせしめ、それはまた僕を打ち拉いだ。しかし、たとえどれだけ自分が惨めになろうとも、そうせざるを得なかったのだと思う。まあ、涙は勝手に出たのだけれど。(なぜそれほどまで惨めになるのかといえば、人前で涙を流すことは何よりも恥ずかしいことだと植えつけられて育てられたせいもある。けれど、どんなに我慢しても、涙は流れるものだ。)
 そんな訳で今日は一日かけて、僕の家を整頓した。辻褄が合わないように思われるかもしれないけれど、そんなことは全く無い。それは僕の出した妥協案に則ったものである。彼の荷物を僕の部屋へ運び、従来よりも彼が僕の家へ通いやすい環境を作るというものだった。あれを捨て、これを捨て、この小さな家からゴミ袋にして十以上の廃棄物を産出した。僕よりも行動力のある彼は押入れの中身を「要るか」「要らぬか」に分けろと全て取り出す。ワオー、僕のプライバシーは全て白日、というか彼の目の下に晒された。彼のプライバシーは確立し、僕のプライバシーは消えた。少し不思議だ。たいしたものなど何も持ち合わせていないし、何も困ることなど無かったけれど。
 夕飯を食べ、二人でほんの短い時間眠り、彼は去った。彼の引越しは無くなり、僕の家は片付いた。僕は、少しでも長く彼と一緒に居られるならば、何でも良いのだ。