discommunicationから逃避

正確に言えば逃避では無い。そもそもディスコミュニケーションを無くす為には真摯で無ければならない。何年でもかけて、共有できるものを増やし、合意点を見つけていくべきであって、逃避などすべきではない。わかっている。僕はそれに縋りつつも、根性無しだから基本的に逃避というスタンスを取ることにした。どこかへ行ってしまえれば、身は軽すぎるくらい軽くなるだろう。今の僕は小さな希望を抱え残している。しかしそれは僕にとってかけがえの無い大切なものだ。捨てることなどできない。
以下抜粋。
多くのひとが論争を嫌うのは様々な理由があろうが、そのひとつとして考えられるのは先述のようなディスコミュニケーションが起こっているために「何を言ってもわからない」からだ。先に述べたような疲労感は、自分自身がこのようなコミュニケーションの限界点に置かれたときに、論争者のもっとも感じるものである。多くの人が相手と意見がすれ違ったときに徹底して合意点を見つけようとしないのは、こうした疲労を避けるためである。自分の意見を述べたあとで、相手の「なるほどそれはきみのスタンスだね」という言葉を最後に対話が終わることがあるが、この言葉は自分と相手の立場の差異を究明し浮き彫りにするためではなく、単に「それはきみの考えとして認めるが、ぼくの考えはそうではないんだよ、わかってくれ」というやわらかな拒絶の意志を表すためのものだ。この個人主義的な「わかってくれ」という暗黙の目配せのようなものは、これ以上議論を続けることを相手にやめさせ、お互いを沈黙にいたらせる。(抜粋終)
第四無名者:論争について(1)より引用
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=28261&from=listbytitle.php%3Fenctt%3D%25CF%25C0%25C1%25E8%25A4%25CB%25A4%25C4%25A4%25A4%25A4%25C6
僕は疲弊してでも合意点を見つけようとしたが、そこから得られたものはやはり疲弊と拒絶と沈黙だった。ぐは。