大崎善生「パイロットフィッシュ」

二〇〇二年吉川英治文学新人賞受賞作。最初読んだ瞬間感じたことは彼の文章から受ける感覚は村上春樹の文章から受けるそれに近いものがあるということだった。辛いだとか悲しいだとかの感情を強く刺激する類のものとはちょっと違う。泣かせようだとか悲しませようだとか感動させようだとか、そのような意図によって描かれたものじゃないと思うんだけど、哀愁が妙に漂っていたりする。嫌いなひとは嫌いだと思う。けど僕はこういう観念的な文章を読むと感性が鋭くなるような気がする。村上春樹が書く文章よりは遥かに直接的で分かり易いし、伏線の使い方も僕的に好ましく思えた。題名のパイロットフィッシュとは、神経質で弱い高級魚の住み易い環境を整えるために初めに飼育され、他の魚のための生態系を残し捨てられる魚のこと。
以下、少し印象に残った文章を数点。

「ねえ、君」と彼女は言った。
「うん?」
「もう、午前二時よ。まだ、話し足りない?」
「あっ、もうそんな時間かあ」
「うん。いいのよ。あなたがそれで気が済むなら私は別に。あなたの話はそれなりに面白いし
退屈はしないわ。ただね、耳たぶがペッタンコになっちゃったの。」
「そうかあ。そうだよね」
「今日のところはもう勘弁して。ただね、言えることがあるとすれば、やっぱりあなたは方向
音痴だなってことね。色々なことに方向音痴。だから、人よりも何倍もの路地を歩く結果にな
るのよきっと。(略)」
「私にいったい何ができるのかしら」
 一時間半にも及ぶインタビューが終わる頃、可奈は誰にともなく言った。
「悲しそうな顔で伏し目がちに可奈の部屋を訪ねてくるお客さんのために、私は何をしてあげ
られるというのかしら・・・」
 そこまで言うと可奈はフウッと頬を膨らませ、そしてその中に溜った空気を吐き出し、視線
をテーブルの上に落としたまま続けた。
「フェラチオは簡単、セックスもOK。可奈は自分にできることならば何でもいいの。それで
お客さんの心に開いている風穴が一瞬でも塞がるのなら、可奈はクビになったってパクられた
って平気よ」
 そして、可奈はゆっくりとした仕草で髪をかきあげた。伏し目がちの瞳は涙で潤んでいた。
 この涙の理由はいったい何なのだろうかと僕は考えた。おそらくは高木も同じようなことを
考えていたのではないかと思う。
「それはある意味では犠牲的な精神なんですか?」と僕は初めて可奈に質問をした。
「そんなんじゃ、ないの。私は犠牲になんかなっているんじゃなくて、そうすることによって
私自身に開いた穴も埋められる。それで自分自身も救われて何とか生きていくことができるの
よ」と低いトーンで可奈は応えた。
 やや感傷的すぎるかなと思いながらも、僕は高木が書いてきた原稿を一字一句変えずに掲載
し、可奈へのインタビュー記事“オール・マイ・ラビングを聞きながら”は大きな反響を呼ん
だ。
 そこには射精産業や風俗というものをフィルターとしながら、人間の愚かさや儚さや切なさ
といったものが鮮やかに浮き彫りにされていた。その記事で勃起をすることはないだろうけれ
ど、それはピカピカに磨かれたグラスに入れられた光り輝く一杯の水のようなものであった。
<本当に偉い人間なんてどこにもいないし、成功した人間も幸福な人間もいなくて、ただある
とすれば人間はその過程をいつまでも辿っているということだけなのかもしれない。幸福は本
当の幸福ではなくて、幸福の過程に過ぎず、たとえそう見える人間でも実はいつも不安と焦り
に身を焦がしながらその道を必死に歩いているのだろう。(略)>

僕はたとえ自分が感じている幸福が「彼」の言う「本当の幸福」じゃなかったり、「幸福の過程」に過ぎないのだとしても、今自分が感じている幸福というものを不安と焦りに身を焦がしながら必死に守ろうとする。僕にとってのその瞬間の幸福こそが僕の本当の幸福だと思っている。従って僕にとっての幸福と言うものは、同時に「永遠に続く幸福のための過程」になる。だから僕は必死に幸福を維持しようと躍起になるのだろう。