きっと、僕は泣く

十七という数字は僕にとって特別なものであった。十七のとき、僕の感覚は、己の人生を定めるべく鋭敏に研ぎ澄まされていて、なんに関しても「全力」で取り組んだ。本当に、全力で。
今の僕はそれに近い。それは「考える」必要性がここ一年間で最も高まったせいであろう。考えて考えて歩きながら、気付けば3km程進んでいたりする。足の疲労に後ほど気付く。可能な限りの集中力を全て投入し、尚考え続ける。
今日、彼からのメールを読み、彼の考えを知ることができたことに感謝する。残念ながら彼と僕の考えはすれ違っていた。彼は僕への愛情以上に疲弊していた。僕は彼への愛情を前提に疲弊していた。その違いを知り、悲しくなり、寂しく思った。一致していたのは、今の僕と今の彼ではどうすることもできないということだった。だから僕は僕が変わればいい、というか、もう変わらなければいけないところに来たんだな、と思った。怠惰な僕は、どうしようもできなくならなければ変わることができないのだと、いつも感じていたはずのことを、妙に新鮮に感じた。きっとそれは頭でする理解と、「体験」との差であろう。しかし、彼は、今の僕と彼の不一致によって、僕への愛情を懐疑するに至っていた。彼は彼自身が悪いのだと考えてくれていた。しかし、それをどうすることもできないのは、多分僕にも彼にも分かっていた。だから僕は僕が変わればいいと思ったのだが、彼は僕が変わるということへの信憑性を認めることができないのか、それとも僕に対する配慮から自分を悪者にしようとしたのか、それは分からない。
この「差異」を今後埋めることができるのかは今の僕には分からない。それをどうにかして無くそうと、努力できるチャンスが与えられれば努力するだろうし、与えられなければ与えられるよう努力するだろうし、それでも無理ならば諦める他無いだろう。何故ならば、僕は彼のことが好きだからだ。彼が僕のことを今、どう思っていようと、それは変わらないであろう。
明日彼と話をすることになった。僕はきっと泣くだろう。どのような結果になっても。そして、その時にも僕はきっと、僕はこんなにも涙を流すくらい彼のことが好きだったのだと、思うだろう。なんとなく、そうなるのだと確信している。仲直りできればいいなあと、何百回も考える。

ハーコー

  • B-DASH「ハーコー」 ハーコーてハードコアのことを言うのか。と、はてなキーワードを辿って始めて知る。けどハーコーという題名とは程遠い爽やかさ。良い。ボーダフォンCM曲。歌詞は相変わらず意味不明。けど妙に耳に優しい。歌詞に囚われない音楽は聴いていてラクだ。

歌詞はこちら。(無断リンクごめんなさい)
http://mriii.ameblo.jp/entry-4f40488d4c988c6b466f5af6816c7e14.html

モノクローム

「思いやりを持て」
それが母親の、唯一の、僕に対する望みだった。勉強なんかできなくていいから、と言う台詞を何十回何百回聞いただろうか。「勉強なんかできてもなんも偉くないのよ。ひとの気持ちを考えて、思いやりをもちなさい。」
まるで呪文のように聞こえた。
自分がされたら嫌なことをひとにするな。されたひとの気持ちになってみろ。
なってみた。確かに嫌だった。なるほど、と思った。されたら嫌なことを自分もしたらいけないのだと、単純に思った。しかし、たとえ僕が変わっても世の中はそう変わらない。ある日突然自分が我慢しても、僕に対する“されたら嫌なこと”は一向に減る様子が無い。掃除の時間の後だったか、「誰も見ているひとがいなくても先生には誰が真面目にやってるか分かる。」と口にした。ほんまかいなと思いつつも、どこかで信じていた。こいつが分からなくても、分かってくれるひとはどこかにいるかもしれない。
母の教えのせいか、僕は小さい頃から日々友人を観察し、選別するようになった。このひとは思いやりのあるひと、こいつは思いやりの無いやつ。前者は“偉い人”、後者は“いやな奴”だと認識した。思いやりというのは奥が深く、そう簡単に持つことはできないものだということが分かった。一度の自己主張は思いやりを縮小させ、一度の自己犠牲は思いやりを増幅させた。集団と関わる際には誰もが納得する案を考えるのはとても難しく、誰かに恨まれる結果になる。その人は案を提言した自分を思いやりのない奴だと考える。たとえ自分が誠意を持って接しているつもりであっても、相手はそう感じていないかもしれない。僕の「思いやり研究」は夏休みの宿題に課された自由研究なんかよりも遥かに真面目に為されていた。うまく言葉にすることができなくとも、毎日五感で感じ取っていた。常に自己を犠牲にしても、「思いやりのない奴」に利用されるだけであるのだということも次第に理解した。利用されることをも許容しなければいけなかったのだろうか。“いやな奴”のために何もかもを捧げなければいけなければいけないのだろうか。自分の人生の何十分の一かを彼らのために費やさなければならないのだろうか。
吐き気がした。“思いやり”を遵守しようとしていた自分に腹が立ち、虚しくなった。
思いやりをもつというのはなんて難しいことなのだろうか。勉強の方が遥かに容易だった。しかし「勉強なんかできてもなんも偉くないのよ。」と家では言われ続けるのだった。
歳を重ねるに従ってモラルもある程度は身に付いて行くのだろう、「遠慮」することが大人であるかのような風潮が出始める。「妥協」は本来良い意味の言葉なのだと知る。日本もずいぶん生活しやすくなったものだ、と胸中にて唱える。利用できるものは利用する輩は更に少数派となり、「わがままだよね」と陰口を叩かれていた人間は遂に「社会性」を批判されるようになる。ざまあ見ろ、とこころの中で思う自分にはやはり思いやりがないのだ、と思う。おそらく、それは僕の人生の課題となり続けるだろう。

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家の中のガランとした空間。彼が荷物を置くのだと宣言した空間。一ヵ月半が経った今も尚空洞であり続けている。忙しくて荷物を持ってくる暇がないと言う。いつまで待ち続ければ良いのだろうか。昼間、突然疑念が沸いた。たとえ彼がここに荷物を持ってきたとして、そして何か変わることがあるのだろうか、と。彼は確かに言った。「荷物もってくるから、そしたら二人で過ごす時間ももっと増えるから」と。しかし現実的に考えてみてどうだろう。消去法で×印をつけてみると、僕の部屋に荷物があってもなくても、何も変わらなかった。ウソだよなあ?○が増えるんだよなあ?聞いてみたい衝動に駆られた。
夕方から夜にかけて資格学校にて授業を受け、帰宅する頃には本格的な夜が始まる。彼から電話が入る。僕が口を開くより先に、職場での可愛い愚痴をはく。うん、うん、と聞いていたら、異動を申し出るかもしれない、と言う話を聞き耳を疑う。二転三転している。最初は異動しなければいけないと言っていた。そして残留できるかもしれない、しかも昇進付きだという話になった。それからまた、異動を申し出ると言う。どうやら「同僚との価値観の相違」が原因らしい。結局どうなるかはもう僕には皆目見当が付かない。
口にしてしまった。懐疑を晴らして欲しかった。気にする必要なんてないのだと思わせて欲しかった。しかし返事は予想通りであった。「僕は精一杯やってる、それで満足できないのなら君は考えを変えるか、君の望みを全て叶えてくれるひとを探すしかないと思う。」「じゃあ、約束はただの空約束だったのか」と問えば、「そうなればいいと思った」と答えた。「そうするために、日々頑張ってる」と。しかし、現実は遥かに遠いだろう。「どんな気持ちでその約束を受け止め、どんな気持ちで実現を心待ちにしていたか知ってるのか」と必死に訴える。しかし「僕は精一杯やってるのだから、それで満足できないのなら」と回帰するのだった。
何に関しても白か黒かどちらか結論を出したがるのが自分の性格なのだろう。だからきっと恋愛が長続きしないんだろうな、と我ながら思う。「子供」なのだろう。「遠慮」や「妥協」を知らないのだろう。こんなことならいつまでも子供でいたいと願ってしまう。遠慮も妥協もいらない誰かがいないだろうか、と。いるはずない。そんなの分かっている。だからみんな大人になるのだ。ならざるを得ない。
グレーか黒かを選べと言う。「僕は今のまま付き合って行きたいと思ってるし、今でも精一杯やってるからこれ以上を望まれてもどうしようもない」
わかってる。
「もし満足できないなら、付き合っていくことはできないと思う。」
白にはなり得ない。白なんて無い。分かってる。いや、分からない。いや、分かってる。
「やさしさが足りないと思う」
言われたら一番痛い言葉を、言われた。

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両者の意向で彼とは暫く連絡を取らないことになった。自分の中で答えはもう決まりかけているけれど、はっきりと記しはしないでおく。もっと熟慮して決断は下されるべきだ。
彼はいつも選択権を僕に押しやる。今回の選択は「グレー」か「黒」かだ。僕が望む色はそこには無い。しかし、「二択」なのだ。
僕にもっと思いやりがあれば、どんな色の中でも生きていけるのだろうか。

昨日の出来事

鬱積したストレスを発散するため友達と大学近くのカラオケへ。個人的に機種ではUGAサイバーDAMハイパーJOY>>その他という感じだ。今日はDAMが入ってる店へ。何が驚いたってELLEGARDEN全曲配信だと!そんなに大好きというわけでもないエルレだけど何かうれしくなって良く知りもしない歌を歌ったりした。それからB-DASHを思い出しながら歌ったけど「適当アドリブめちゃくちゃ語」にやられた。(CDの歌詞カードにそう書いてるしカラオケ字幕でもそう出てくる)記憶を頼りに本当に適当アドリブめちゃくちゃに歌いまくった。すっきりした。
夕方から夜にかけてTACにて資格学校へ通う。彼が迎えに来てくれ一緒に飯を食う。二人で寝る。昨日の日記に書いたようなことを彼に言った。言わなくても良いことだと思ったが、言わねば伝わらないかもしれないとも思った。少しでも僕の気持ちが伝われば良い。彼にもそうして貰いたい。実際、僕らはお互いそうするよう心掛けていた。自然とそうなっていた。もしかしたら始めからそうだったかも分からない。しかしあれ以来一ヶ月間、僕は「言わないこと」を選択していた。そこから齎された鬱屈や暗澹たる想いはカラオケで一時的に軽くなっていたので言えたのかも分からない。当たり前だが非難がましく言うよりやさしく言ったほうが聞いて貰える。彼がテレビを見ているときよりもさて寝るかと布団に入ったときのほうが聞いてくれる。(彼が眠そうにしだしたら絶対に駄目だ。)こういうのはやはりTPOによって大きく左右されるようだ。ふむふむ、なるほど。日々研究を続けている。いびきが五月蝿いときは頭をなでてキスしてやればにやにやして静かになることも分かった。目を閉じながらもにたにたする様子が面白くて笑った。

「白蛇教異端審問」桐野夏生

ISBN:4163667008
桐野夏生の初エッセイ。ネットで見て回ってみたら妙に評判が良かったので買ってみた。なるほど、なかなか面白い。(すごく面白いとも感じなかった)ただ、やはり自分はエッセイを読むのが苦手らしい。そこに書かれているのはノンフィクション、掛け値なしの現実であって、どうした訳か読んでいて落ち着かなくなる。それは多分、想像力を持て余してしまうせいだろう。小説は基本的に読者へ呼びかける。そのために小説はあると言って良いと思う。逆にエッセイはどちらかと言うと自己完結的だ。それはエッセイを書くものがイコール主人公であるからに他ならない。ダイレクトに書かれているため、何だか読んでいて「それは違う」と思うことがあれば、「作られた登場人物」に対してではなく「筆者本人」に対する非難になってしまう。という風に思うと何だか気が滅入るのだ。それでもエッセイを読んでいて良かったと思うのは、作者がどのような姿勢で小説を書いているのか知ることができるという点だ。
そもそも日記なんてのは推敲の浅いエッセイのようなもんだ。なんだかこんな駄文にまみれた日記を書いていて妙に恥ずかしくなってきた。

「対岸の彼女」角田光代

ISBN:4163235108
秀逸。非常に楽しめた。オビには「区別」「立場が違う」「決裂」などと最近ブームな勝ち犬負け犬的な煽り文句が書いてあって購買意欲を煽っているけれど、却って小説に余計な先入観を抱かせる気がする。第132回直木賞受賞作。これこそ直木賞だ、と妙に頷いた。丁寧な心理描写、構成。消化不良な部分は想像力で補えば良い。
なんて言えばいいのだろう、なんにでも当てはまるのだけれど、たとえば僕と彼には12歳という年齢さがあったり、社会人や学生という立場の違いがあったり、まるで間に川が流れていて、彼が対岸にいるように思われるときもある。それでも僕は彼と一緒にいたいから川を渡って行きたいと思うし、彼にもこっちに来て欲しい。話が逸れた。
押し売りな感動ではなく、不思議と元気になれた。読みやすいので本を読むのが苦手なひとにも読んで貰いたい。